あがき苦しむこと

テスト終了。
途中で脱力状態に陥ったためあまり勉強できなかった。授業には出ていたので内容を思い出しながら書くことになった。やはり授業を休まなくてよかったというわけだ。学生なんだから授業に参加するのは当然だな。後半のプレゼンとかすっぽかしてた俺が言えたことじゃないが^^;
よくわからない問題もあったが、自分なりに考えたことを書きつくしたので後悔はない。最後まであがき続けることができたので、そこは自分で評価していこう。
最近になって、あがき苦しむことが、俺を形成する上で重要なものとなっているという実感がわいてきた。
どこかのノートの切れ端に書き込んであった言葉
「苦しみに値するものであれば、それだけ人生は生きるに値するものとなる。」
たしかドストエフスキーも同じようなことを言っていたが、それは彼が彼なりに苦しみに立ち向かい、苦しみを考え抜いたからに他ならない。それだけにいっそうこの言葉は重い響きを与える。
偉人に限らず、強く生きようとする人間の苦しみは大きなものだ。だからそれに屈しない信念を持ち続けることが何としても必要となってくる。その意思がなければ、生きることすらできなくなって、また元の状態に逆戻りめでたしめでたしとなるわけである。
ここには書いてないかもしれないけど、俺は「劣等感」というものと「反動」というもので動いている、と自分では思っている(この2要素については機会があったら書いてみようかな)。この2つの要素は、俺という人格の根本にあって自分の行動を規定しているものだが、実際に行動をしている時の俺を構成しているものが苦しみなのだ。
つまり、苦しいと感じる機会が多ければ多いほど、俺が自分自身の人生や過酷な運命に立ち向かっていると自覚する機会が増えるというわけで、その点において苦しみは避けるべきもの、軽減すべきものとはならず、むしろ積極的に受け入れていくべきものであり、それを自覚する姿勢が求められているというわけだ。
そんなことに気づいた以上、以前に書いた「苦しめるもの」に対する見方も変わってくる。こいつらは俺を動かす原動力なのだから、取り除くわけにはいかない。むしろ積極的にこれらに立ち向かっていくだけの信念を持てるようになれれば、それは掛け替えのない強さとなって、さらに俺を勇気付けてくれるものとなるのだ。
利用できる苦しみは最大限に利用する。
これは俺にとっての大きな目標となった。学校は休みに入るが、この目標への意志を求める姿勢だけは休ませてなるものか。